
Dancer
<踊るということ>
私がベリーダンスを初めて観たのは、19歳の時、六本木の高級クラブで歌の伴奏をしていた時です。夏のイベントで、歌とベリーダンスのステージを交互に上演する企画があり、自分が演奏していないときは客席で踊りを観ることになりました。ベリーダンスの存在を知ってはいたものの、バレエ生活を送ってきた私は、人間にこんな身体の動きができるのか、と、初めて観たベリーダンスには衝撃を受けました。とても美しく魅力的で、お客さんも私も和気藹々と楽しいひと時を過ごしました。
休憩時にカウンターに座ってその時のベリーダンサーLUNAさんと話したのをよく覚えています。その時は、自分がベリーダンスを踊ることになるなど、全く想像すらしませんでした。
私は色んな表現をしてきた中、絵と踊りが1番性に合っていると感じています。表現するというよりも
パフォーマンスであったり、レッスンであったり、それらを同じ空間で共有させていただくことに意義を感じています。
これからも、表現を通して何か自分に出来ることはないか、そんな中で生きていきたいと思います。
私がやりたい(自分に合うのではないか)とずっと思っているのは実はロシアンジプシーですが、日本ではまだ体系的なメソッドが広まっていないため、技術を習得できる機会がないのです。早く流行らないかな。
流行らなくても、学べる機会があれば、習得したいと思っています。
<踊りの転機>
私は今でも、バレエを愛しています。
規範の中で正しさと美しさを追究して踊ることは、感性の宝になります。
クラシックは美しいメロディやムーブメントの宝庫であり、
そこには「永遠の美」と「永遠の学び」があります。
しかし、クラシックバレエは毎日弛まぬ努力とケアを続けなければ踊り続けることはできません。
大学を卒業してから楽譜制作の仕事が忙しくなっていった私は毎日徹夜で譜面を書き続け、
締め切りが明ける頃に、気づいたら季節は変わっていた…ということもざらでした。
バレエの稽古をする時間は思うように取れなくなり、練習量が一気に減ると筋力は急激に低下し、
ある日、激痛で立てなくなってしまった。
私の体は関節が緩く、股関節の臼蓋が先天的に浅いので(臼蓋形成不全)ダンサーに向いている体ではありますが、
関節の周りを支える筋肉を失ってしまうと、緩んで遊びの出た関節が関節包(関節の周りにある袋)を巻き込んで
激痛が走ってしまうのです。
行き過ぎる可動域とルーズジョイントは、体の動きに歯止めが利かなくなり、クラシックの規範からずれてしまうので
バレエ時代に私の体の癖と徹底的に向かい合ってくれた庭山ゆりか先生からも
「それ以上はいっちゃダメ!」と、行き過ぎる可動域を何度も是正されました。
歩けなくなってからも私の意識はもっと自由に踊りたい、踊り続けたいと思っていたように思います。
その時は感じていなかったけれど、今になって思い返してみれば、地上にいる自分の存在には上の人がいて
上の人は、私という個体が踊り続けることを望んでいたように思うのです。
股関節の治療に通っていた時にお世話になっていたカイロプラクターに、踊りはもうやめる必要があるのか…と呟いたところ、
「ベリーがいいんじゃな〜い?」と言われ、
なんとなく、ベリーダンススタジオに体験レッスンに行きました。
クラシックバレエの西洋的な身体の使い方で教育を受けてきた私は、
身体のうねりと曲線を自在に使うオリエンタルダンスの動きに戸惑い、
立ち尽くして固まったまま、一歩も動くことができませんでした。
西洋の踊りと東洋の踊りは、身体の使い方が全く正反対です。
ベリーダンスのように、身体の中心ラインから個々の体のパーツを横や斜めにズラして動かすムーブメントは
私の脳にはない運動の回路であり、中心軸でフィックスされた身体は、言うことをきかなかった。
チェストを横にスライドさせようとすると、移動した先に身体の中心軸がシフトされ、
頭から爪先まで全部が軸についていって、結局真っ直ぐ立ってしまう。
方眼用紙の中から逸脱することができなかったのです。
それでも、初めてのベリーダンスレッスンを受けた帰りは、全身が喜びで満たされたのを覚えています。
その時レッスンを受けた先生から「踊りを生きる」姿を感じ、心が明るく軽くなりました。
彼女の自然体で開けた世界観はとってもフレンドリーなものでした。
私が、世界一のダンサーだと思っている、タカダアキコさんです。
バレエの稽古場は私語などもってのほかで、先生の一言一句、一挙手一投足に五感と全神経を傾けて臨むもので
水を飲むタイミングさえ難しい緊迫した空間ですから、
ベリーダンスのアットホームな雰囲気にはカルチャーチョックを受けました。
体が動かない私を指差して、「わー!貴子、LEGOみたい!」と、先生に大笑いされた。
いっそ笑い飛ばしてくれた方が楽だ。
潔くリセットできた。
ジャンルを変えることは、人生観を変えることと等しい。
それまでの自分に、一度サヨナラをする必要がある。
それまでの生き方を、一度リセットする必要がある。
でも、全く怖くなかった。「疑わなかった」という方が適切な表現かもしれない。
今までの自分にサヨナラしたところで自分はなくならないし、
他のものを吸収したことで 自分の中の大切なものが壊れることもない。
だから一旦ゼロにして、まっさらな状態で、踊りを再スタートした。
バレエはもう踊らない(というか踊れない)けれど
踊るということに境界線はない。
「踊りなんだから、かわいくね。」
そう言われて気づいた。
そうか。ただ踊ればいいんじゃないか。
<踊り手としてのスタート>
初めてステージでプロフェッショナルとしてデビューしたのはアンビエントミュージックによるジャンルのない踊りでした。
その時は、空色のレオタードを着て、ボールを使ってパフォーマンスしました。10歳のときです。
もう一曲はジャズダンスを踊りましたが、残念ながら曲は覚えてはいません。(聴けば思い出すかも)
しかし、ステージから見た観客一人ひとりの表情は、今でもハッキリと目に焼き付いています。
そして踊りながら、表現に対して対価が支払われることの責任と感謝を覚えたのでした。
衣装はミリ単位で計算して調整すること、体のデザインもまた気を抜いてはならない重要な要素であること。
それを、本番直前のステージ傍で私の最初の先生はレクチャーしました。
初めて私をステージに立たせたのは、ジャズダンサーの「後藤 聡子」先生。
今でもステージの前は、天国にいる後藤先生の言葉と笑顔が蘇ります。
「じゃ、たかちゃん、いってらっしゃい」
後藤先生が私の肩をたたいてステージに送り出したあの時、
私の踊り手としての人生が始まった。ここまで長い旅だった。そして、旅はこれからも続く。