
Essay
<踊りのあれこれ>
「ベリーダンス」はアメリカ的な言い回しで、本来は「ラクス・シャルキ=東方の踊り」あるいは、「ラクス・バラディ=国の(土地の)踊り」といって、中東に起源を持つ踊りを意味します。広く一般的には、「オリエンタルダンス」と言われていますので、
「ベリーダンス」は、通称ということになります。
「国の」「土地の」=日本でいうなら、炭坑節や盆踊りのようなものでしょうか。種類ではなく、「国の」という意味合いが。
盆踊りは お盆の時期に厭世(この世、現世“うつしよ”)に帰ってきている先祖の霊を背負って先祖と共に踊るものですから、弔い、感謝、畏れ、願いといった人間の力だけではどうにもならない感情、つまり昇華させる必要のある「精神」「念」のようなものは言葉や行動から先の領域であり、それらは「舞う=ただ感じる」表現に託されたということになります。お参りで「手を合わせる」ように、説明のつかない人間の営みであると私は解釈しています。ただなんとなく動くこととは違うのです。心から感じて、生きとし生ける歓びを噛みしめて今を楽しむ 人間にできるせめてもの行為なのです。
オリエンタルダンスは、通称の通り、お腹(belly)の動きを中心として、体のパーツごとの動きを組み合わせて、音に反応して体を動かしていく踊りで、即興性と自由度の高い踊りです。
よく、「美容や健康にも効果はありますか?」とか、「ダイエットに良さそう!」といわれますが、それを聞くと私は内心うんざりします。そもそも踊りというのは、心の豊かさを育む芸術活動であって、効果を求めて行う運動ではないと私は考えているからです。
でもまぁ、そういった効果もあるにはあります。オリエンタルダンスは一つ一つの動きがシンプルで体に負担のない動きですし、日常では使わない体の部分を多く使うので、どんな年代でも無理なく自分のペースで楽しめます。(もっとも、ダンス全般、日常では使わない動きばかりですが。)
バレエは、ストーリーに重きを置く演劇としての要素が強いので 宗教色が全面に感じられることがないように見受けられます。お芝居やオペラと同じ分野に位置するものであると私は解釈しています。踊りとマイムで物語を表現するバレエは、外へ外へと開けた表現であり、まるで絵本のページをめくるように煌びやかな世界が次から次へと展開されます。バレエダンサーの動きは主にステージの上手から下手までを左右に移動する「横の軌道」が多く、そのベクトルはステージから客席へ向かって大きく開いています。蟹歩きのように横に移動するには、股関節をアン・デ・オール(外旋;ターンアウト)させて体をオープンにする必要があります。
メインで踊るプリンシパルに加えて アンサンブル、コール・ド・バレエ(群舞)、そしてオーケストラは見事な調和を為し、その計算された美は、贅に沢を尽くした高尚な総合芸術です。
一方ラクス・シャルキ(ベリーダンス、オリエンタルダンス)は言葉を選ばずに言うと「民衆的」で、ソロで音楽に合わせて即興で踊るのが基本的なスタイルです。踊り手はほとんどその場から動くことはなく、畳半畳分のタイトなスペースで踊ります。シミー(揺らす)やアンジュレーション(波打つ)、サークル(円運動)を多用し、空間的なベクトルはどちらかというと内へ内へという要素が強くなります。現在はベリーダンスも広いステージで踊られることが多くなったので、西洋的な影響が強くなり、ステージ上を大きく移動したり、群舞で踊ったり、衣装も、バラディ・ドレスやマーメイドスカートのようなタイトなデザインだったものから、お姫様ドレスのようなフレアスカートの衣装を用いるダンサーが多くなりました。バラディ(古典的なベリーダンスのスタイル)はお腹の見えないバラディ・ドレスで踊るのが大元の形ですが、バラディも、いまではオリエンタルの衣装(今日、普遍的に「ベリーダンス」のイメージとなっているお腹を出したキラキラした衣装)で踊られることが多くなっていて、派手なエンターテイメント性や西洋的要素が強くなってきています。
今日、世界的なベリーダンス・トップダンサーのワークショップでもバレエ用語が多用され、バレエターンや「パ」(フランス語で「ステップ」)などのバレエテクニックを身につけていなければ身体のこなしに付いていけないこともあります。時代に合わせて柔軟に変化しているのが、今日のベリーダンス業界であると言えます。
さて、現代に於いての「踊り」は 総合的に、宗教色よりも装飾的なニュアンスが強い純粋芸術であると私は定義していますが、オリエンタルダンスのタイトでシンプルな世界観は日本人の宗教観つまり「心」に合った、なおかつ楽しんで踊ることのできる比較的フレンドリーなジャンルだと思っています。
日本はもともと多神教で アニミズムが根底にありますから、自らムーブメントに意味付けをする即興的な「ラクス・シャルキ=東方の踊り」は、日本人の心が共鳴しやすいと私は考えています。
「日本人の本当の財産」は、無形つまり「心」であるというのが本質であると私は考えており、そのこころは、「和食」に集約されるでしょう。一期一会といってもいいでしょう。その場を「感じる」ことが全てなのですから。私は日本人女性として生まれたことを心から誇りに思っているので、そういった「心」の活かせる踊りを追究していたいと常に思っています。
私が純粋なオリエンタルダンスだけに留まらずフュージョンスタイルを好んで踊るのは、日本人としての魅力を活かしつつ、メッセージ性やストーリーをもつ作品としての表現に意義を感じているからであり、お客さんや会場の雰囲気とが織り成す、その場でしか生まれ得ないエネルギーを互いに共有できることに和平を感じるからです。
先にバレエの行で「贅に沢を尽くした」と表現しましたが、踊りは贅沢品か、芸術は贅沢品かと問うならば、ある側面では贅沢品かもしれません。教育には様々な人が関わり、ひとりの芸術家を育てるには時間と金銭、目に見えない様々な労力など、壮絶な背景がありますから。
私はどう思うか。
芸術は、言葉では表現できない領域、特に踊りはプリミティブな側面が強く、言語よりも「心」に近い営みであり、人間が人間らしく生きるための、なくてはならない「命」なのである と信じています。
そして私が芸術に求めているものは安住ではなく、革新的な生命の躍動であるのです。
<融合ということ>
今の私はバレエを辞めてからオリエンタル(ベリー)ダンスを踊っていますが、生粋のオリエンタルを踊ることもあれば、フュージョンスタイル(様々なジャンルを組み合わせた融合的なスタイル)で踊ることもあります。どちらかというとフュージョンスタイルを好んで踊っていると思います。私の体はベリーダンスを踊るにしては体が薄くボリュームに欠けるので、それなりに合う形に変えなければ滑稽になってしまう気がするからです。エジプシャンのダンサーはお腹周りも胸まわりも豊かでとてもパワフルで魅力的ですが、細い体では、同じように踊ることは無理です。身体の構造も文化も違うのに、ただ海外のダンサーの真似をしても意味がないと私は思います。(補足しておくと、日本人でも、体が豊かでパワフルな魅力あるダンサーはたくさんいます。)
ひと口にフュージョンといっても、何でもかんでも混ぜればいいというものでもなく、表現の意図や意義が大切だと思っています。よく、着物をリメイクした衣装でベリーダンスを踊っているのを見かけますが、私はそのような組み合わせ方は好きではありません。
着物をはだけさせたり、客席で着物を脱いだりすることは、果たして日本の文化を大切にした上品な行動と言えるのでしょうか。
「日本人が誤解されるからやめてくれ」と私は思っています。茶道のお稽古にステーキやケバブは出てきませんし、あるいは、畳の上をハイヒールで踊るようなことが自然だとは思えません。あるいは本物の手練手管であればうっとりとした気持ちで観ていられると思うのですが。
(ちなみに私が劇場の楽屋で浴衣や着物を着ているのは、表現のためではなく、着なくなった着物が小さく折り畳めてガウン代わりに便利だからです。絹の襦袢は体も冷えないので快適です。)
着物を使用したベリーダンスの演目で素晴らしい作品も観たことはありますが、それはそのダンサーが和のテイストを美しく組み込んでいたから違和感を覚えなかったのだと思います。何事も、「単なる組み合わせ」とはいかないところが、フュージョンの難しさであり、楽しさであると思います。
有名どころであれば、畳の上で革靴を履いて歌ってもジュリーは格好がよかった。淡麗な容姿と独特な色気、そして歌唱力という裏打ちされた背景つまり知性があったから良かったということもありますが、当時のスタイリストの早川タケジさんのセンスが絶妙だったのだと思います。他のモデルが同じことをしても、おぞましい惨事になることでしょう。個々がアンバランスでも、総合的にまとまった作品になる。融合的な表現とは、然るべき素材がマッチすることが大切だと思うのです。
そして、ファッションをはじめとした世にある表現のほとんどは新しいものを作り出していく方向が強く、あらゆる融合を試みている場面が多いかと思いますが、コメントを控えざるをえないものも多々あるなか、面白いものに出会った時は感服し、わくわくする。